恵庭の玄関口「漁太波止場」

更新日:2020年09月14日

恵庭地図

北海道は、古くから「蝦夷」と呼ばれ、その多くは未開の地であり道路も整備されていないため、移動のための主な手段は、河川を利用した水上交通だったそうです。

この地図(少し古いものですが)で見ると、左下に市役所があり、その左にある漁川を地図の上へ(下流に向かう)たどって行くと、漁川が千歳川と合流しています。(この地域は、漁川を挟んで右が漁太、左は林田です。)

この合流付近の黄色に塗られているエリアに、恵庭の船着き場(地元の方は「波止場」とおっしゃる方もいます。)が、昭和初期頃まであったそうです。

 

千歳川と漁川

この図は、最初の図の黄色で塗られた部分が拡大されており、古い漁川と千歳川も示されている資料です。資料によると明治以降の恵庭の船着き場は、旧千歳川の左岸沿い(南12号漁川橋から下流を見ると現在の漁川右岸付近)にあったようです。また、旧河川同士が合流する少し手前の旧漁川左岸(南12号漁川橋から下流を見ると現在の市道漁川沿線沿い)には、番屋があったようです。

川を使って、江戸時代からイザリブト・シママップの産物であるサケやマス、鹿の皮などが運ばれ、その後明治以降は、本州などからの開拓者や日用品・着物、大正の後半には、漁川の発電所を建設するための機材なども運ばれていたそうで、鉄道の開通や千歳川の水量の減少によって衰退してしまう昭和初期までは、まさに恵庭の玄関口だったわけです。

 

漁川と鳥居

左上の写真は、南12号漁川橋右岸側(下流に向かって右側)の欄干付近から、右上の写真は、南12号漁川橋左岸の欄干付近から撮影したものです。

左下の写真は、南12号漁川橋左岸の欄干付近から、「イザリブト番屋」があったとされる地点にある「恵庭神社遥拝所跡(写真の黄色枠内)」を撮影したものです。右下の写真は遥拝所跡を近くから撮影したもので、鳥居の奥には、祠(ほこら)のあった場所に建てられた石碑が見えます。松浦武四郎が著した紀行文には、番屋のそばにお社があると記されていることから、遥拝所跡付近に番屋があったと推測されているようです。

現在は、橋の上から辺りを見回しても、船着き場の面影を残しているものが何も残っておらず、船着き場がどんなものだったのかは想像するしかありません。そのことが少し残念です。